昭和四十三年六月六日 朝の御理解


立教神伝 「この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」

 〈道が〉開かれた、其訳というか、其理由がはっきりしませんと無意義の信心をすることになります。ですから、どういう訳で金光教の信心が開けたか、または天地の親神様としてはお開きにならなければならなかったかということでございます。
 教祖金光大神を通して、天地の親神様のおかげを受けられるように、何故ならなければならなかったか。それが立教神伝に安政六年十月二十一日の神様のお伝えでございます。教祖様に対する。それをこの道では立教神伝と申しております。
 「この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」とあります。
 こういうような訳で金光様の御信心が始まった訳でございます。ですから、私どもが取次ぎ助けられる、お取次を頂いておかげを頂く。と言うことがいよいよ、繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くというところ。ここのところにお道の信心の眼目と言いましょうかね、本当にお道の信心によって助かるということはね、私が助けてもろうた、私が困った時に助けてもろうた。と言うだけではなくて、私が助かったということが、親も立ち行き、氏子も立ち行く、神様も立ち行かれるということに繋がっておらなければならんということです。
 お取次を頂いておかげを頂いたというだけではいけないということです。
 そこで、私たちがどういうあり方にならなければならないかと、それは言うなら、目の覚めるようなおかげを頂いて、奇跡と言わなければおられないようなおかげを頂いた。御取次のおかげによって助かった。けれども、それが、段々いつとはなしにその信心が薄うなって、いついつはあんなおかげを頂いたということになってしまうようなことでは、この立教神伝の、所謂御神意に沿わないことになる。
 そのような一つの助けられたことが、いよいよ信心を深く篤くしていく。自分がいよいよ信心を頂いていくということが、天地の親神様のお喜びというかね、天地の親神様も助かられるところに繋がっていかなければならない。でないと、教祖様が欲得を放して、天地の親神様のこうした神様の願いをひた受けに受けられて、御精進下さった、こういう尊い道を開いて下さった意味がなくなってしまうのです。
 ですから、ここの立教神伝ね。御道が立てられた。そのことの神様のお伝えがあるところに、この立教神伝の内容というものがよくよく分からなければならないですね。
 そこで、分かるということと同時にですね、信心は悟りだと言われておりますから、それが翻然としたものでなければならない。分かるだけなら、誰でも説明を受ければ一応分かりますけどね、それが、自分の心の中に翻然としたもの。所謂悟り。そこんところを御理解の第一節に、「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と仰せられます。 「今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」。それは、天地の音というのはあまりにも大きいですから、それを聞き取ることができません。お互いが、あまりにもすさまじい、あまりにも大きい。ですから、私どもが其ほんの一部分の音を聞く。その一部分の音を聞かせてもらうことによってですね、翻然として心が開けてくる訳ですね。例えば、お話を頂いておるうちにです、例えば、五十歳なら五十歳の人が、五十歳になるまで、50年間の間、この世に生を享けさせて頂いて、天地の御恩徳によって、生かされてきた御恩徳も分からず、本当に忘恩の生活をしてきたということが、心から相済まんと分からせてもらう。本当に相済まん五十年間であったと、気付いたら、そこからは一切のことに神恩報謝の心というのが頂けなければならない筈です。
 これは病気によって悟る人もある。難儀な問題によって悟る人もある。さまざまに信心の教えを頂いて、本気で行じさして頂くうちに翻然としたものになってくる。悟りが開けてくる。しかもその悟りがですね、神も助かり氏子も立ち行くようなおかげを頂かせてもらう。
 その為にはね、この御理解に、例えば、子供が病気のときに慌ててはならんと〈こう御っしゃる〉。その子供が心中をいうて親の言うことを聞かん。そういう時に、ままよという心になれと、もうどうなっても構わん。言うことを聞かんなら、「お母さんしらんよ」というだろう。そういう心ですね。そういうような心になって信心してやれ、おかげがあるとこう仰る。いわゆるままよという心になる。もう構わんと例えば子供に言うときがあろうが、そういう時に、子供の枕元にばっかりおってさあどうなるじゃろうかというて、病気をしておる子供の顔ばっかり眺めておるようではね、本当の神様のおかげは受けられんというのである。ですから、非常に厳しいことですね。かわいい子供が病気をしておる。言うことを聞かん時に、「構わんぞ」というような気持ち。そういう気持ちになってしまえじゃない。そういう気持ちになって神に縋ってやれとこう仰る。
 そういう信心。そういう信心からでないと立教神伝の神意というものは、私は分からんと思う。そこからね、神様の生き生きとした働きが頂けてくる。
 その生き生きとした神様の働きを頂くから、心の中に、今天地の開ける音を聞いて目を覚ますことができるのです。
 昨夜は五日でございますから壮年部会でございました。実に有難い共励会でした。御祈念を終わらして頂きましてから、善導寺の原さんがこういうようなお届けをなさいました。今朝方から、御夢を頂かれたのか、御心眼を頂かれたのか知りませんが、それがね、いろいろありますけど、分かりやすく言うと、原さんの家に注連が張り巡らしておる。原さんとこの家に注連縄が張り巡らしてある。その真ん中へ五十円の硬貨を、ちょうど御賽銭を上げるようにして上げておるところであったとこういうのである。
 ですから皆さんが、それを原さんの家と思わずに、なら、中村さんの家と思うてもいい。高橋さんがおられるから高橋さんは自分の家に注連縄が張り巡らしてある。と思うて下さい。注連というのはどういう不浄でも汚れでも入らないように注連を張る。
 信心しておかげを頂くと、そのおかげがいよいよ清められ、いよいよ不浄なものがないまでに清められるのですから、周囲からどのようなことがあっても、どのような不浄が掛かってきても、その不浄を払うだけのもの。それをもっと分かりやすく言うなら、信心しておかげを受けた。そのおかげがです、いよいよおかげが育っていくのであって、頂いたおかげをまた落として行くようなことのないように、確固たるものにしていくというのである。注連を張り巡らしてある。
 ところがお互い、おかげを受けても、受けたり落としたり、受けたり落としたり。注連が張り巡らしてない訳ですね。それはどういうことかと言うと、それこそ、本当な信心が分からんから何ですけども、本当の信心を分からして頂いて、どのような時でも、どのような場合でも、おかげを落とさんで済むだけの信心をお互がいが身につける稽古をさして頂いておるんだ。銘々のところで。ここのところに信心の稽古の眼目を置いてないとですね、あとの信心が非常に乱れてくる。
 神様にいろいろにお願いをする。お金のない人はお金を、不健康な人は健康を、様々な難儀な問題を通してさまざまにお願いをしておかげを頂くが、頂いたおかげがかえってまたおかげ落としの元になるようなことになりませんように、信心の稽古をしっかりしておくのである。分かりやすく言うならば、「どうぞ億万長者にならせて下さいと願うから、まあ仮に億万長者にして下さったとしましょうか。ですから、億万長者になっただけの徳というものを身に受けてです、その億万長者でなければできないような、神様が喜んで下さるようなお役に立つ私にならなければならんのに、億万長者にならして頂いた途端に、贅沢になる。途端に神様が喜びなさらんようなことをしでかすようになったんでは、頂いたおかげがかえって仇になる。
 これは健康に置き換えてもいいですよね。もう這いも立ちも出来んようになっとる。夫婦喧嘩もできんごとなっとる。どうぞ助けて下さいというから健康にして下さった。そしたら、健康になった途端にやりやりやって夫婦喧嘩をするなら、神様は、そういうおかげをやらんほうがよかったと仰るに違いないですよね。分かりやすくいうなら。
 ですから、例えば原さんの場合なんかはです。どんなに健康になっても夫婦喧嘩は一期しません。どんなにあなたがお金を下さっても、この金を神様が御嫌いなさるようなことには決して使いません。と言う、そこのところをいよいよ間違いのないものに一生懸命信心の稽古を一家を挙げて、ただ今しております。そういう信心の稽古をしておる時だということなんです。
 そしてそこに、一切のものが恵まれる。しかも恵まれるということが、もうそのときだけではなくてです、限り無く無尽蔵に、無限大のおかげに繋がっていくほどのおかげをです、お互い作るための信心の稽古ということは、そういうおかげのことをどういいますか。一切のものが、必要なものが必要に応じて頂けれるようになる。一切の事柄が成就する。いわゆる不自由することがない。神様のそうした御恵みを限り無く頂けるようになったことを、皆さんはどういいます。いうならば、信心の理想郷。というて、高いところの手の届かんものではない。誰しもが受けられるおかげである。そのだれしもが頂けるそのおかげを目指さなければ。
 例えば、ここにおられる方達は、そういうささやかな、小さいものを、言うならばですね。皆さんが、断片的ではあっても体験しておられますでしょうが、皆さん。もうできないところができていきよる。お願いをする。そして成就していっておる。そういう例えばおかげのことをですね、はあ、こりゃばさらか呻吟するこたぁいらんたい。難儀、そのことについて取り越し苦労するこたぁいらんてい、神様に一心におすがりさえしときゃこういうおかげが頂けるということを分からして頂いたらどういうことになるですか。これは心配することではないなあと。どのような場合でも御取次を頂いてお願いをしていきゃおかげが頂けるという確信。そういう心が開けてくる。そしてそれが実際の上に頂けて来るようになった、そういう姿を私はこの世の極楽というのではなかろうかと思う。
 原さんが自分の家に注連縄張り巡らして、段々受けておられるおかげを決して落とすようなことはせん。これを段々大きく、間違いのないものにしていこうとしておられる。そして中に五十円硬貨を入れておられるということはどういうことかというとね。五十ということはどういうことかというとね、五重塔というのがありましょう。あれにはね、仏教で言うたくさんな経典。ここで言うなら御理解集。もう言うならば、本当の意味での極楽行きの稽古が出来れる経典が、あの五重塔の中には一杯詰まっておるということです。私は知りませんけど、そんな風に聞いております。ですから、私の方は元浄土宗でしたから、善導寺です。ですから、年に一回か、何年に一回か五重に入るということを申します。何日間かはもう、潔斎して身を清めて五重にいって、いろいろと有難い話を毎日毎日頂く。そしてどういうことをするかというと、極楽行きの稽古を一生懸命する訳です。五重に参加するというのはそういう事です。
 だから、五重の時に帷子から、経文やらもらってくるでしょう。それをお棺の中に入れてやったら、極楽に往生することができるという訳なんですね。ですから、その極楽行きの稽古なんです。五重ということは。五重に入るということは。
 ですから、原さんの場合は、今お前たちは一生懸命五重に入っている訳です。極楽行きの稽古、極楽行きの切符を求めておられる感じがする。一生懸命、夫婦だけじゃない、親子、現在四人おられますが、親子四人のものが一生懸命本当の意味の極楽行きの稽古をしておられる。それは、あの世で極楽行くのじゃなくて、この世、現世を通して、あの世現世を通してこの世でもあの世でも極楽のおかげを頂かせてもらえよという稽古を一生懸命しておられる。折角極楽に行っとったけれども、また地獄に後戻りといったようなことのない、確固たるものにするために信心の稽古をなさっておられます。 そこんところがなかなかどうでしょう。皆さんも、極楽行きの稽古をなさっておられる。それはおかげを頂く稽古ではない。本当の極楽行きの稽古である。それはもう、あの世この世を通して、所謂この世で有難い心を開かせて頂くこと。
 そんなことを私、昨日御祈念終わってから、お取次させて頂いてから、壮年部会に参加させて頂きましたから、その事をテ-マにしてから、いろいろ私が質問をしたんです。その時に私が頂きますことがね、原さんのそのお届けを聞かせて頂いた時に、注連縄の中に五十円をこうやって入れておられるという、どういうことだろうかと思うたらね、『信心のすべて』ということを頂いた。信心のすべて。信心のすべてはここにかけられてあるんです。
 信心のすべて。信心のすべてはね、私共がこの世あの世を通して、本当に極楽行きの稽古をさしてもらうということなんです。そこに、何百巻か、何千巻か知らんけれども、経典経文といったものは、そういう極楽行きのことは具体的に、言わば示されたものなんです。ここで皆さんが頂いておられる御理解というものは、もうすべてが、極楽行きの稽古なんです。自分自身の心が本当に助かる、ためには清まる、改まる、限り無く美しくなる。そこから天地の御信用、御神徳を頂かせてもろうて、一切のものに恵まれる。しかも無尽蔵に恵まれていくようなお徳を受けていくところに焦点を置きなさいと。そして頂いたおかげを金輪際落とすことのないだけの信心をしっかりしておきなさい。所謂注連縄張り巡らしときなさい。脇からどういう誘惑があっても、その誘惑に負けないだけの信心をしっかりしておかなければなりませんよと、神様は原さんに言うておられるような感じがいたします。ですから、皆さん一人一人にもそう言うておられるようなことになる訳なんです。
 そういう助かりになって参りませんとですね。神も助かり氏子も立ち行くと言うことにならんのです。神も立ち行く、氏子も立ち行くということにならんのです。
 そこで私が、皆さんに、本当にこの世あの世を通して極楽に行けれるということに、皆さんはどういう風に信心を頂いておられるか。どうあったらその極楽行きが出来れるか。これは一人一人の信心個性と言うものがある。みんな同じということじゃない。何百あるか分からない教典なら教典の中から、これだけは自分のものになっておるということによって、心の中が一つの悟りになって開けてくる。それでよいのである。ために私は次々と、流して皆さんに聞きました。
 久富繁雄さんが一番こっちにおられましたから、「久富繁雄さんあなたはどう感じられましたか。」それは、あの人の十八番ですね。「いよいよ素直になるしかない」とこういう訳です。だから、これからとてもいよいよ素直になることをもっともっと垢ぬけした、もっともっと誰が見ても聞いても、例えば子供から見ても、「家のお父さん、あげんとが素直というのじゃろう」と言うような素直な私になる以外はなかろう。もう本当に素直ということは、もう馬鹿とおなじことなんですよ本当いうたら。だから、時々ひさ富さんの在り方を見たら馬鹿じゃなかろうかというようなところが感じられます。と言う風に素直。確かに素直になったらですね、楽です。所謂極楽です。
 次ぎに原さんに尋ねました。丁度ご夫婦で一緒に来ておられましたから、原さんの奥さんのほうに、あんたが今日いただいたことをテ-マにして話をしておるのだが、原さんはどげな風に思いなさるですか。そしたら原さんが言われました。「もう最近頂いておる御理解の一切のもの、一切の事柄に、先生御の字をつける以外にないです。」と言う風に言われました。一切の事柄、一切の物、に御事柄、御物という頂き方。これだったら絶対極楽に行くですね。どういう腹の立つような問題が起こって来てもです。その事柄をです、神様の御事柄として頂いたら腹は立てられませんですね。寧ろ有難いです。極楽です。
 皆さんならどう答えられますか、皆さん心の中に〔思うて見て下さい〕。これは、あなた方の信心の一つのキャッチフレ-ズですかね。私は確信する。それでいいのだ。
 永瀬さんは言われました。「いよいよ成り行きをですね、大事にしていく。しかもそれを有難く頂いて行くということに、ここに焦点を絞っております。私はかく信ずる」と言う訳です。どのようなことになってきても、それをですね、合掌して受けていく、しかも有難く頂いていくことに極まったとこう言われる訳です。
 原さんのご主人の方が言われましたが、「私もやはりその成り行きを神様の働きとして頂いております。いや、神様の働きとして信じさせて頂く稽古をさして頂いております」そういう風に言われました。これなんか本当に実感的だと思うですね。ここでしきりに皆さんに聞いてもらいますね。成り行きを大事にすると。先生はああいわれるけれども、本当に成り行きそのものが神様の働きじゃろうか。こういうような損な、腹の立つようなことが神様の働きじゃろうかと、やっぱり疑う心が起こるけれども、それを親先生がああおっしゃるから神様の働きとして信じられるように、そのことを稽古しておるというのである。そして、段々積み上げられていくものは、なるほど成り行きそのものが神様の働きであるなあということを少しづづ分かっていきよるというのである。
 丁度六名の方達に聞いておるところへ遅ればせに久富さん達が見えました。久富勇さん達が夫婦で見えられましたから、早速そのことを私が、最後に一口だけ話て下さいというて話しましたら、「先生、最近私は、もういよいよ自分が無力であることを分かって参りました。だから先生、お縋りしなければおれません」と、こう言うんです。というて、その実例を二・三あげておられました。自分ではもう、何にも出来ないということがいよいよ分かって参りました。そこで、お縋りしなければおられないというのである。
 もう、ここのところが分かってくると、大変ありがたいですね。最後に秋永先生がそれをまとめるように、言われましたことに、今日は六名の方達が、これは代表の方だけが六名でいろいろ発表されました。その一人一人言われたことを私は、共励殿の塗板に書いております。ですから皆さん、後からご覧になるといいですね。例えば、合楽にこれだけのものが一生懸命信心の稽古に通うて来ておるがです、確かに皆さんがここで、塗板に書かれたように、六名の方達が発表されたように、そうどころではありません、それ段ではありません。成り行きを大切にしていく以外にありません。それを本当に神様の働きと信じれる稽古よりありませんけれども、けれども、皆さんは五里霧中でしょうが、言うならば。親先生が「素直になればおかげが頂ける」、「成り行きを大事にしていけば極楽に住める」。そう言われるから、場合によっては泣く泣く、辛抱していきよるだけでしょうが。現在、皆さん極楽行きしとる訳ではないでしょうが。
 すべての事柄に御の字をつける生き方にその時その時は、「そうだ」と心に開けるものを頂いて有難いけれどもです、今は、まあだ極楽行きに繋がってる訳じゃないでしょうが。只、親先生がああいわれるからお互いがそのことに一生懸命取り組んでおるというのであって、まあだそこは苦しいところでしょうが。こう言う風にしていけば必ず、いっぺんは極楽に出られる、おかげは受けられる。それこそ、みんながそこのところを、まあやや信じて進んでおられるだけでしょうが。
 私はそれを聞かせて頂いてから、「こりゃ、そうどころじゃない」と思うた。
 合楽でこれだけの人が親先生任せになる。親先生が言うことを信心はここに極まったと言うて、そのことに一生懸命精進しておられるのが、何時まで経っても、いつまでたっても極楽行きに繋がらないならばです、こりゃ大変なことだ。こりゃ私の本当に全責任になる。になることになる。これはいよいよ、私がもっともっとおかげを頂かなければならない。
 皆さんが、私が言うことを信じて下さるのも訳がある。何故かと言うと、私が、ささやかなその手本のようなおかげを受けておる。ですから、「親先生の言われる通りしときゃ、やっぱおかげを受けられるじゃろう」で、六名の人たちが発表したような事ですら、稽古されていきよるのであり、現在そういう稽古中である。
 ですから、いかにも、例えば原さんが仰るように「もう兎に角すべての事柄、物に御の字をつける以外ないんだ。ここに極まった」と言うて、そのことを信じて、一切のことに御の字をつけていかれる稽古に、いよいよ精進されていくならです、ね、確かに極楽行きに繋がるじゃろう。ご自分もそう思っておられる。と言うてまだ、極楽、あの世、この世を通しての極楽というか、言うならば、誰が見ても極楽じゃろうと思われるような極楽でなからなつまらん。
 言うならば、今地獄の釜で煮、激ぎたれておるような場合の人も沢山あろうと思う。だから、一つの修行ができておられる。けれども、この地獄の釜を踏み抜きゃ、一生懸命踏み抜けば、その下に極楽があると先生が仰るから、踏み抜かして頂く一生懸命の信心をさして頂いておるんだという人が、私は、大体が合楽で多いのではなかろうか。
 果たして、今地獄のようなところを通っているけれども、この先には、果たして極楽があるだろうか。けれどもあると言われるから、一生懸命地団駄踏むようにして信心させて頂いておるんだということになる訳。
 今日は、立教神伝、この弊切り境にという立教神伝。立教神伝が教祖の神様に下った。そこから金光教の信心が始められた。そこで、何故、どういうような訳で金光教の信心が始められたかということを分からなければ、いくら信心したっちゃ見当違いのことに進む恐れがある。
 そこで、皆さんが素直になることだ。成り行きを大事にすることだ。様々なその生き方をもって信心をいよいよ進めておいでられるが、そしておかげを頂いた暁には、ここに、この世で極楽往生ができる。この世で極楽のおかげが頂かれる。言うなら、おかげを受けられたその時にも、おかげを落とすことなしに、そのおかげが神も助かり、氏子も立ち行くおかげに繋がっていくようなおかげをです、頂くところにお道の信心の眼目がある。
 そこに、教祖の神様を通して、死んだと思うて欲を放して神を助けてくれいと、こうまで仰っておられる神様のご真意が感じられるのです。
 そうして皆さんが信心をしておいでられる、例えば、六人の方が発表しておられる。こうだああだと言うておられる。それは、言うならば悟りに似ておるじゃないけれども、まだ悟るとまでは行っていない。分かられただけ。段々体験を積んでいかれてから、成程成り行きを大事にしていけばいいな、素直にさえなっていけばいいなぁと言うことを分かっていきよるだけ。
 これが翻然とした悟りになっていくときにです、それはいよいよあなたのものであり、それはあなたの信心の、本当の意味でのキャッチフレ-ズになるだろう。その一言で極楽行きが間違いないでしょう。そこのところを今天地の開ける音を聞いて目を覚まさせて頂ける願い。やはり求道心を何時も燃やしていくところに、翻然として神様が悟らして下さる機会がある。その機会をつかんで、私どもがその信心を自分のものにしていかなければいけない。そしておかげを受ける。そのおかげがあの世この世に通じるだけではなくて、そのおかげが神も助かり氏子も立ち行くところのものでなからなければならない。
 皆さんはまず、何と言うても自分の家に、自分の心に注連縄をまず張らなきゃいけん。頂いていきよるおかげを落とすようなことは致しません。どんなにおかげを頂いてもこれに不浄をかけるようなことは致しません。と言う、まず注連縄を晴らして頂いて、そして、五十円硬貨を中に、いわゆる五重、極楽行きの稽古をいよいよ積んでいかなければならない。そこから、立教神伝の真意というものをわからしてもらい、その線に添うて極楽行きの稽古が段々なされていく。自分だけが極楽いったんじゃ詰まらん。親も一緒に極楽に住むための極楽でなからなければならない。それをお道では、現世において、現在、この世の中においてそれを開かせて頂けるおかげの見本を教祖様は打ち立てられた。 いうならば、ここでは私が成程この世にこういう極楽があるんだという事を、私自身も細やかではあるけれども、こういうおかげを受けられておるというおかげを実証して皆さんに聞いて貰っておる。ですから、皆さんがいうならば、ここに一つの手本があるから、いうなら、泣く泣くでもついて行かれるのである。
 もし私が、本当にお金に不自由して、すべてに難儀苦労しておるなら、心配苦労しておるならです、私が。私がどのようなすばらしいことを言うてもです、皆さんが、おそらく泣く泣くついちゃ来んと思う。先生はあんなに言いなさるけど自分自身がおかげ頂いてないじゃないかということになってくるから、もう、教えというものが弱いものになってしまう。
 じゃろうと思うんです。ここで私がおかげを受けておるから、先生が言われることじゃから間違いはなかろう。先生が言われることに素直についてさえいきゃ自分たちもそういう道に出られるんだというとこになってくるんじゃないでしょうかね。そこに私は、合楽の有難いところがあると思うんです。私自身がおかげを示して、皆さんに聞いて貰っておるのですから。ですから、どうでもここのところの、原さんが頂いておられる注連縄を張ること、五十円。いよいよ信心とはね、このおかげを頂くためだけじゃない、いよいよ五重に参加するということね。本当の極楽行きの稽古をする事だとわからしてもらい。そしてわからしてもらったことを本気で、馬鹿と阿呆と言われるくらいに素直になるとか、本気で成り行きを大事にするとか、それを、原さんじゃないけれども神様の働きと信じられる稽古をやはりなされていかなければならん。そこから、信心の、成程苦しい、泣く泣くだけれども、その泣く泣くの泣き様が違う。神様がこうしてわからして下さろうとしておる。神様がこんなにしてまで本当のことを下さろうとしておるという、有難いものが必ず伴のうたおかげを頂かなければいけない。そういうおかげを頂きたい。そのためにもう一遍、立教神伝の真意をわかって自分は極楽行きの稽古をしておるかということを確かめて、いわゆる極楽行きの稽古をしなければならんと思いますね。